ちょうど「昭和」が終わって、「平成」に年号が変わった1989年の始め、
名古屋在住の高校2年生だった僕は、将来の進路を考えねばならない時期を迎えていた。
そこで、好きな美術で大学に入れるならそこを目指そうかなと、
半ば刹那的な気持ちで美大に進むことを決めた。
暗黙の内に敷かれたレールの上で、極めて受動的に美大をチョイスしたことで、
今に通じる根無し草のような生き方が決定してしまったのかと思うと、
自分の人生も転がる石の如くどこか他人事のように思えてくる。
その時点ですぐに予備校のような美大受験のための専門機関に通う発想はなく、
かわりに授業が終わった後、美術部員でもないのに美術室で一人黙々とデッサンをしていた。
何枚か描いていたが、覚えているのはセネカという石膏像を描いていたときだ。
当時は、鉛筆を寝かせてうっすらと調子をつけていくようにして描いていた。
そこへ、美術のS先生がおもむろに近づいてきて、こう言った。
「この次は線を使って描いてみようか?」
美術室の壁には、予備校が配布している石膏デッサンのポスターが貼ってあった。
それを横目で意識しつつ、バババッと勢いよく描いてみた。
それを見た先生は待ってましたとばかりに、
「こっちの方がいいよ!」と言うので、内心そうかなあと思いつつも、
受験ではこういう描き方が好まれるんだなと、そのとき理解した。
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その時のセネカ |
そうこうしている内に学年も1年上がり、5月の連休にさしかかる頃、
僕はようやく重い腰を上げて、S先生の勧めで美大受験専門の塾に通うことにした。
名古屋には河合塾という大手予備校が存在するが、S先生が薦めてくれたのはそこではなく、
市内にある個人経営の私塾だった。
その個人というのはS先生の予備校時代の恩師で、
今は自宅で受験指導を営んでいるHという人だった。
(〜②へ続く)
彫刻科主任 古池潤也 http://www.ochabi.ac.jp/gakuin/view/F00003/